なぜミラノはローマでもフィレンツェでもなく「経済とデザインの首都」なのか。ドゥオーモの完成になぜ500年かかったのか。レオナルドはなぜこの街で18年を過ごしたのか。5つのポイントで、常に「次」を築き続ける都市の文脈をつかみます。
ミラノの起源は紀元前のケルト人集落に遡り、ローマ時代には「メディオラヌム(平原の真ん中)」と呼ばれる大都市に成長しました。あまり知られていませんが、3〜4世紀には西ローマ帝国の事実上の首都が置かれていた街です。
313年、コンスタンティヌス帝がこの地で発した「ミラノ勅令」はキリスト教を公認した世界史の転換点。つまりミラノは、ヨーロッパのキリスト教文明が公式に始まった場所でもあるのです。
中世のミラノはヴィスコンティ家、続いてスフォルツァ家が支配する公国として、ヨーロッパ屈指の富と武力を誇りました。1386年にドゥオーモの建設を始めたのもヴィスコンティ家です。
スフォルツェスコ城はこの時代の居城。ミラノとレオナルドの深い縁は、フィレンツェとはまた違う形でルネサンスを動かしました。
1386年に始まったドゥオーモの建設は、なんと完成まで約500年を要しました。ミラノ方言の「ファブリカ・デル・ドゥオーモ(ドゥオーモの工事)」は、今も「終わりの見えない仕事」を意味する慣用句として使われています。
長い停滞を打破したのは、意外にもナポレオンでした。1805年、自らのイタリア王戴冠式をこの大聖堂で行うためにファサードの完成を命じたのです。3400体を超える彫像と135本の尖塔を持つ世界最大級のゴシック建築は、こうして幕を開けました。
18〜19世紀のミラノはオーストリア・ハプスブルク家の支配下にありました。1778年開場のスカラ座はこの時代の産物ですが、やがてイタリア統一運動(リソルジメント)の精神的な拠点になっていきます。
ヴェルディのオペラの合唱は独立を求める民衆の心の歌となり、1848年には市民がオーストリア軍を一時撤退させた「ミラノの5日間」の蜂起が起こります。優雅な劇場文化と反骨精神が同居するのが、この街の面白さです。
第二次大戦の爆撃でミラノは歴史的中心部の多くを失いました。しかし戦後の復興は驚異的で、イタリアの経済・金融・出版・広告の首都として復活。1961年に始まった家具見本市は、今や世界最大のデザインの祭典「ミラノ・サローネ」に成長しました。
「垂直の森」ボスコ・ヴェルティカーレに象徴されるポルタ・ヌオーヴァの再開発は、その最新章です。2000年の歴史の上に、常に「次」を築き続ける——それがファッションとデザインの都ミラノの本質です。