なぜこの街の名前は「塩の城」なのか。なぜ丘の上の巨大な要塞は、一度も落城しなかったのか。なぜオーストリアなのに、街の空気はどこかイタリアの香りがするのか。そしてモーツァルトは、なぜ愛する故郷を捨てたのか。5つのポイントで、塩が生み、大司教が磨き上げ、音楽が世界へ届けた小さな都市の物語をたどります。
ザルツブルク(Salzburg)とは、ドイツ語で「塩(ザルツ)の城(ブルク)」を意味します。周辺の山々では古代ケルトの時代から岩塩が採掘され、「白い黄金」と呼ばれた塩は、この地に莫大な富をもたらしました。街を流れるザルツァハ川(「塩の川」の意)は、切り出した塩を船で下流へ運ぶ大動脈だったのです。
塩の交易で得た富は、のちに壮麗なバロックの街並みを築く原資になります。ハルシュタットやベルヒテスガーデンの岩塩坑を日帰りで訪れると、この街の繁栄の源泉に直接触れられます。観光名所として人気の塩坑は、実はザルツブルクという都市そのもののルーツなのです。
中世からザルツブルクを支配したのは、王でも貴族でもなくカトリックの大司教でした。彼らは宗教的な指導者であると同時に、世俗の領土を治める君主「大司教領主(Fürsterzbischof)」でもあり、オーストリアにもバイエルンにも属さないほぼ独立した小国家を千年近く統治したのです。
とりわけ16〜17世紀の大司教たちは、ローマやフィレンツェから建築家を招き、街をアルプスの北の「北のローマ」へと造り替えました。大聖堂、レジデンツ(大司教の宮殿)、円形の広場——旧市街に漂うイタリア的な優雅さは、この時代に生まれたものです。丘の上のホーエンザルツブルク城塞も歴代大司教が増強し続けた居城で、その圧倒的な威容ゆえに、900年の歴史で一度も武力で陥落しませんでした。
1756年、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトはゲトライデ通りの一軒の家で生まれました。父レオポルトは大司教に仕える宮廷音楽家で、幼い天才は6歳からヨーロッパ各地を演奏旅行して回ります。ザルツブルクは、この街が生んだ最大の名前の生誕地なのです。
しかし成長したモーツァルトは、大司教コロレドの下で宮廷音楽家として仕えることに強い不満を募らせます。狭い宮廷、限られた自由、報われない待遇——1781年、彼はついに大司教と決別し、ウィーンへ飛び出しました。故郷を捨てた選択が、『フィガロの結婚』『魔笛』といった傑作を生む転機になります。いまザルツブルクが「モーツァルトの街」を掲げているのは、皮肉にも彼が離れたあとに世界的名声を得たからなのです。
千年続いた大司教の統治は、ナポレオン戦争の激動のなかで幕を閉じます。1803年に宗教領主の世俗支配が廃され、その後ザルツブルクはバイエルンに併合されるなど支配者が二転三転しました。最終的に1816年、この街はオーストリア(ハプスブルク帝国)の一部となります。独立した小国だった時代の終わりです。
皮肉なことに、独立を失って地方都市になったことが、バロックの街並みを「保存」する結果をもたらしました。ウィーンのような大改造の波を受けず、大司教時代の姿がそのまま残ったのです。19世紀後半には鉄道が開通し、その美しい景観を求めて各地から旅行者が訪れる観光地として、新たな歩みを始めました。
1920年、演出家マックス・ラインハルトや作曲家リヒャルト・シュトラウスらによってザルツブルク音楽祭が創設されました。毎夏7〜8月、街じゅうの劇場や教会がクラシック音楽で満たされるこの祭典は、いまや世界最高峰の音楽祭のひとつです。モーツァルトの故郷は、音楽の都として再び世界の中心になりました。
そしてもうひとつ、街を世界に知らしめたのが1965年の映画『サウンド・オブ・ミュージック』です。ナチス・ドイツ併合前夜のザルツブルクを舞台にしたこの物語は、ミラベル庭園やレジデンツ広場、近郊の湖水地方を世界中のスクリーンに映し出しました。大司教が築いた石畳を、いまも映画のワンシーンを探して歩く旅行者が絶えません。塩と信仰と音楽——三つの層が重なった街を歩くとは、この時間の厚みをたどることなのです。