なぜこの街には同心円状の運河が広がっているのか。なぜ「自由な街」というイメージが根付いているのか。なぜアンネ・フランクはこの街に隠れ住んでいたのか。5つのポイントで、アムステルという小さな川のダムから生まれたこの街の文脈をつかみます。
アムステルダムという地名は、「アムステル川に築かれたダム(堰)」を意味する「アムステルレダメ」に由来します。13世紀、漁民たちがアムステル川の氾濫を防ぐために築いた小さな堰が、この街の始まりでした。
今も街の中心にある「ダム広場」という地名は、文字通りこの最初の堰があった場所を指しています。氾濫原の湿地から始まったこの街が、後にヨーロッパ有数の商業都市へと発展していく物語の出発点が、この一つの堰にありました。
17世紀、アムステルダムは「オランダ黄金時代」と呼ばれる爆発的な繁栄を迎えます。1602年に設立されたオランダ東インド会社(VOC)は、世界初の株式会社とされ、その株式を売買する取引所もこの街に生まれました。アジア貿易で得た莫大な富が、街を大きく変貌させます。
この繁栄を受けて1613年に計画されたのが、同心円状に広がる運河リング「グラフテンゴルデル」です。整然とした都市計画のもとに整備されたこの運河地区は、当時のヨーロッパでも類を見ない先進的な都市デザインとして高く評価され、現在は世界遺産に登録されています。
宗教対立が激化していた17世紀のヨーロッパにおいて、アムステルダムは比較的寛容な都市として異彩を放っていました。スペイン・ポルトガルから追放されたユダヤ人、他国で発禁となった書物を出版する印刷業者などが、この街に活動の場を求めて集まりました。
哲学者スピノザもこの街のユダヤ人コミュニティの出身です。商業的な実利を重んじる気風が、結果として思想・信仰の自由な空気を育んだことは、現代のアムステルダムのリベラルなイメージにも通じる歴史的背景です。
第二次世界大戦下、ナチス・ドイツの占領統治を受けたアムステルダムでは、市内に暮らしていた10万人以上のユダヤ人の大多数が強制収容所へ送られ、命を落としました。『アンネの日記』の著者アンネ・フランク一家も、運河沿いの建物の裏部屋に2年以上身を隠しながら過ごしましたが、最終的に発見され、アンネ自身は収容所で亡くなりました。
かつて活気あるユダヤ人街だった旧市街東部のエリアは、この悲劇によってコミュニティのほとんどが失われました。アンネ・フランクの家をはじめとする戦争関連の史跡は、この記憶を風化させないための重要な役割を担っています。
意外にも、アムステルダムは1960〜70年代にかけて自動車中心の都市開発が進められていた時期がありました。しかし交通事故で命を落とす子どもが急増したことを受け、「子殺しをやめろ(Stop de Kindermoord)」という市民運動が巻き起こり、自動車偏重の都市計画への異議申し立てが強まります。
この運動が結実し、市は自転車インフラへの大規模投資へと方針転換しました。現在市内に張り巡らされた自転車専用レーンの多くは、この数十年にわたる政策転換の成果です。「もともと自転車の街だった」わけではなく、市民の声で作り上げられた街だという点は、意外と知られていない事実です。