なぜ人口わずか数万人の都市から、ルネサンスという人類史の転換点が生まれたのか。なぜドゥオーモの巨大なクーポラは「不可能」と言われながら完成したのか。5つのポイントで、メディチ家の街フィレンツェの文脈をつかみます。
フィレンツェの起源は、紀元前59年頃にローマの退役軍人への入植地として築かれた「フロレンティア(花咲く街)」にあります。アルノ川のほとり、軍道が交差する要衝に、ローマ式の碁盤目状の街路で計画的に建設されました。
現在のレプッブリカ広場が、当時のフォルム(中央広場)の跡地にあたります。旧市街の中心部を歩くと妙に整然とした直交する通りに出会いますが、それは2000年前のローマ都市計画の名残なのです。
中世のフィレンツェは、毛織物産業と金融業でヨーロッパ屈指の経済力を築きました。この街で鋳造された金貨「フィオリーノ」は国際基軸通貨として流通し、フィレンツェの銀行家たちはローマ教皇庁の財務まで担うほどの力を持ちます。
つまりルネサンスは、純粋な芸術運動である以前に、商業都市の富と競争が生んだ文化への巨大投資でもありました。ウフィツィ美術館に並ぶ傑作群は、その投資の「配当」といえます。
ドゥオーモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)の建設が始まったとき、直径約45mの巨大な丸屋根を架ける技術はまだ存在しませんでした。「いずれ誰かが解決するだろう」という楽観のもと、屋根のない状態が半世紀以上続いたのです。
この難題を解いたのが、金細工師出身のフィリッポ・ブルネレスキでした。足場も型枠も最小限に、レンガをヘリンボーン(杉綾)状に積み上げて自重を支える二重殻構造という前例のない工法を考案し、1436年にクーポラを完成させます。ルネサンス建築の幕開けを告げる工学的偉業であり、今もフィレンツェの空に浮かぶあの赤い屋根は、レンガ約400万個でできています。
ミケランジェロのダビデ像は、単なる聖書の英雄像ではありません。巨人ゴリアテに挑む小さなダビデの姿に、大国に囲まれながら自治を守るフィレンツェ共和国自身が重ねられていました。1504年の完成時、像は市庁舎(ヴェッキオ宮殿)の正面に、あえて「敵」の方角を睨むように設置されます。
現在オリジナルはアカデミア美術館に移され、ヴェッキオ宮殿前にはレプリカが立っています。ちなみに「ウフィツィ」は元々「オフィス(役所)」の意味で、メディチ家の行政庁舎として建てられた建物が、後に世界屈指の美術館へと転用されたものです。
フィレンツェは1865年から1871年まで、統一間もないイタリア王国の首都でした。この時期に城壁の撤去や環状道路の整備など大規模な都市改造が行われ、ミケランジェロ広場からの有名なパノラマもこの時代に設計されたものです。
もう一つ、この街を語る上で欠かせないのが1966年のアルノ川大洪水です。市街地が水没し、膨大な美術品と書籍が泥に浸かりました。このとき世界中から駆けつけたボランティアは「泥の天使たち」と呼ばれ、文化財修復の技術が飛躍的に発展する契機となりました。街のあちこちに残る浸水位のプレートは、芸術の都が経験した危機と再生の記録です。