なぜゲントは中世ヨーロッパ屈指の大都市だったのか。なぜ市民たちは「輪縄を首にかけた男たち」という不名誉な渾名を、今では誇らしげに名乗るのか。なぜ『神秘の子羊』はこれほど数奇な運命を辿ったのか。5つのポイントで、2つの川が交わる場所から生まれたこの街の文脈をつかみます。
ゲントはスヘルデ川とレイエ川が合流する地点に築かれ、中世には毛織物産業を中心に発展を遂げます。最盛期の12〜13世紀には、アルプス以北のヨーロッパでパリに次ぐ規模を誇る大都市だったとされ、フランドル地方の経済・政治の中心地として大きな影響力を持っていました。
グラーフェンステーン城(伯爵の城)は、1180年、フランドル伯フィリップ・ダルザスが十字軍遠征で見た中東の城塞を模して建設したとされます。この街の富と権力の大きさを象徴する建造物です。
1432年に完成したファン・エイク兄弟の傑作『神秘の子羊(ゲントの祭壇画)』は、油絵技法の完成度において西洋美術史に革命をもたらした作品とされています。
しかし同時に、この祭壇画は「世界で最も盗まれた美術品」としても知られています。宗教改革時の破壊の危機、フランス革命での略奪、ナポレオンによる接収、第一次・第二次世界大戦での強奪と、幾度となく数奇な運命を辿ってきました。現在もパネルの一部(公正な裁判官)が行方不明のままとなっています。
1500年、神聖ローマ皇帝カール5世はゲントで生まれました。しかし故郷への愛着とは裏腹に、1540年、重税に反発したゲント市民の反乱を、皇帝自ら軍を率いて鎮圧します。
聖バーフ大聖堂に隣接する鐘楼は、ベルギー・フランスの鐘楼群として世界遺産に登録されています。中世都市において鐘楼は、教会の権威からも領主の権威からも独立した「市民の自治」を象徴する建造物とされていました。
塔の鐘は火災・敵の襲来を知らせるだけでなく、市場の開閉や集会の招集にも使われ、ゲント市民の日常生活そのものを支配していました。この鐘楼の存在自体が、ゲントが単なる領主の支配下の街ではなく、独自の経済力と発言力を持つ都市だったことを物語っています。
1817年に設立されたゲント大学は、現在も学生数7万人を超えるベルギー屈指の総合大学として、街に若々しい活気をもたらしています。ブルージュのような観光地然とした雰囲気ではなく、「生活する人々の街」としての顔を色濃く残しているのは、この大学の存在が大きく影響しています。
近年ゲントは、旧市街への自動車乗り入れを大幅に制限する「循環交通計画」を導入し、ヨーロッパでも先進的な車不要都市づくりの事例として注目されています。中世の街並みを、現代的な都市政策で守り育てている好例と言えるでしょう。