なぜプラハ城はヨーロッパ最大級の城郭なのか。なぜこの街には「窓から人を放り出す」という物騒な言葉が2度も歴史に登場するのか。なぜ「百塔の都」と呼ばれるのか。5つのポイントで、ボヘミア王国の黄金期から共産主義の終焉までをつなぐ文脈をつかみます。
プラハが最も輝いた時代のひとつが、14世紀のカレル4世(カール4世)の治世です。ボヘミア王であり神聖ローマ皇帝でもあった彼はプラハを帝国の首都と定め、1348年には中欧最古の大学「カレル大学」を創設。カレル橋、聖ヴィート大聖堂の建設着手など、現在プラハの顔となっている建造物の多くがこの時代に始まりました。
プラハが「百塔の都」と呼ばれる所以は、この黄金期を通じて数多くの教会・塔が林立する独特の街並みが形成されたことにあります。
プラハ城はギネス世界記録にも認定された「世界最大級の古城群」で、9世紀に起源を持つ城壁内に、宮殿・教会・庭園が複合的に広がっています。中でも聖ヴィート大聖堂は1344年に着工しながら、資金難や様式の変遷により完成したのは実に1929年。ゴシック様式で始まり、後の時代にネオゴシック様式で完結するという、585年にわたる建築の歴史そのものが見どころです。
プラハには「窓外放擲(プラハ窓外投擲事件)」という物騒な歴史用語が2度登場します。1419年、宗教改革者ヤン・フスの処刑をめぐる対立から市庁舎の窓越しに役人が投げ落とされた事件がフス戦争の引き金となり、1618年には新教徒貴族がプラハ城の窓からハプスブルク家の役人を投げ落とした事件が三十年戦争(1618〜1648年)の発端となりました。
この三十年戦争でボヘミア軍が敗北した後、プラハはハプスブルク家の統治下に組み込まれ、以降300年近くにわたりウィーンを中心とするハプスブルク帝国の一部として過ごすことになります。
旧市街に隣接する「ヨゼフォフ」地区は、ヨーロッパで最も歴史あるユダヤ人コミュニティのひとつとして知られています。13世紀にはこの地に集住が始まり、旧ユダヤ人墓地には12,000基以上の墓石が重なり合うように並んでいます。
この地区に伝わる有名な伝説が、16世紀のラビ・レーヴが粘土人形「ゴーレム」に命を吹き込み、ユダヤ人コミュニティを守らせたという物語です。今もオールド・ニュー・シナゴーグの屋根裏にゴーレムが眠っているという言い伝えが残っています。
1918年、第一次大戦後にチェコスロバキアとして独立を果たしたプラハですが、20世紀は苦難の連続でした。第二次大戦中はナチス・ドイツに占領され、戦後は共産主義体制下に置かれます。1968年、「人間の顔をした社会主義」を掲げた自由化改革「プラハの春」はソ連率いるワルシャワ条約機構軍の軍事介入により弾圧されました。
その約20年後の1989年、「ビロード革命」と呼ばれる無血の民主化運動によって共産党政権は崩壊。劇作家ヴァーツラフ・ハヴェルが初代大統領に就任し、1993年にはチェコとスロバキアが平和的に分離独立しました。ヴァーツラフ広場は、この2つの歴史的な出来事いずれの舞台にもなった場所です。