なぜこの街で、アメリカの独立宣言が読み上げられたのか。なぜ「兄弟愛の街」と呼ばれるのか。なぜワシントンDCができる前、ここが合衆国の首都だったのか。フィラデルフィアは、寛容の理念のもとに築かれ、アメリカという国が産声を上げた街です。5つのポイントで、建国の物語が刻まれたこの街の歴史をたどります。
フィラデルフィアは1682年、イギリスのクエーカー教徒ウィリアム・ペンによって築かれました。当時ヨーロッパで迫害されていたクエーカーは、信仰の自由と、あらゆる人への寛容を理想とする人々。ペンはこの地を、宗教や出自で人を差別しない「聖なる実験」の場にしようとしたのです。
街の名フィラデルフィアは、ギリシャ語で「兄弟愛(フィラデルフィア)」を意味します。ペンが設計した碁盤目の街路と広場は、火災に強く歩きやすい近代的な都市計画の先駆けとなりました。寛容と秩序を重んじるこの街の気風は、のちにアメリカ独立の理念が育つ土壌にもなっていきます。
18世紀、フィラデルフィアはイギリス植民地で最大級の都市に成長し、独立運動の中心地となりました。1776年、この街の議事堂(現在の独立記念館)に13植民地の代表が集まり、アメリカ独立宣言が採択・署名されたのです。「すべての人は平等に造られた」という理念が、ここで世界に宣言されました。
その象徴が、独立を告げて鳴らされたと伝わる「自由の鐘(リバティ・ベル)」。また、この街に暮らしたベンジャミン・フランクリン——政治家・科学者・出版人として活躍した「アメリカ建国の父」の一人——の存在も、フィラデルフィアを知の中心地にしました。街のあちこちに、建国の記憶が刻まれています。
独立後、新しい国のかたちを定める作業も、この街で行われました。1787年、独立記念館で合衆国憲法が起草・採択され、世界初の近代的な成文憲法が生まれます。そして1790年から1800年までの10年間、フィラデルフィアはアメリカ合衆国の首都でした。
ワシントン大統領やアダムズ大統領がこの街で執務し、初期の連邦議会が開かれ、アメリカ最初の銀行も設立されました。ワシントンDCという新首都が完成するまでの間、フィラデルフィアは若い共和国の政治・経済の中心だったのです。オールドシティを歩けば、この「最初の首都」の面影に出会えます。
19世紀、首都の座はワシントンDCに移りますが、フィラデルフィアはアメリカ有数の工業都市として発展を続けました。鉄道車両、繊維、造船など多彩な産業が栄え、「世界の工房(ワークショップ・オブ・ザ・ワールド)」とも呼ばれたほどです。
工場で働くため、アイルランド、イタリア、東欧などから多くの移民が流入し、街の顔ぶれを豊かにしました。南フィラデルフィアのイタリア系コミュニティは、名物チーズステーキを生む土壌にもなります。20世紀後半には工業の衰退で街が停滞した時期もありましたが、移民が築いた多様な文化は、今もフィラデルフィアの活力の源になっています。
20世紀後半に停滞したフィラデルフィアは、独自の方法で再生してきました。その象徴が壁画(ミューラル)運動。落書き対策として始まった取り組みが発展し、いまでは市内に数千の壁画が描かれる「全米屈指の壁画の街」になりました。街を歩けば、建物の壁が巨大なキャンバスに変わっています。
マジック・ガーデンズのようなアート空間、活気を取り戻したウォーターフロント、そしてペンシルベニア大学などの学術機関——歴史遺産を守りながら、アートと知で新しい魅力を生み出すのが今のフィラデルフィアです。独立の理念が生まれた街は、その多様性と創造性を武器に、今も自らを更新し続けています。街を歩くとは、アメリカの「始まり」と「今」の両方に触れることなのです。