なぜ金融街の通りが「ウォール(壁)街」と呼ばれるのか。なぜ自由の女神は港の入口に立っているのか。なぜこの街には世界中の言葉と料理があふれているのか。ニューヨークは、オランダの小さな交易所から始まり、移民を吸い込みながら世界の中心へと駆け上がった街です。5つのポイントで、その劇的な物語をたどります。
ニューヨークの始まりは、17世紀にオランダ人がマンハッタン島南端に築いた交易所「ニューアムステルダム」でした。毛皮交易の拠点として栄え、先住民から島をわずかな品物で「買った」という伝説も残ります。当時、島の北の防御のために築かれた木の壁——その跡が、いまのウォール街(Wall Street)の名の由来です。
1664年、この街はイギリスに奪われ、時の国王の弟ヨーク公にちなんで「ニューヨーク」と改名されます。碁盤目の街路や、多様な出自の人々を受け入れる商業都市の気風は、この交易所の時代にすでに芽生えていました。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパから新しい暮らしを求める膨大な数の移民が、船でニューヨーク港を目指しました。長い航海の末、彼らを最初に迎えたのが、1886年に建てられた自由の女神像です。そのすぐそばのエリス島には入国審査場が置かれ、1200万人もの移民がここを通ってアメリカへ入ったと言われます。
アイルランド、イタリア、東欧のユダヤ人、中国、そして世界中から——さまざまな言語と文化を持つ人々がこの街に住みつき、「人種のるつぼ(メルティングポット)」と呼ばれる多様な社会を築きました。いまも街に息づく多国籍な食や文化は、この大移民の時代がつくったものです。
20世紀に入ると、限られた島の土地を活かすため、ニューヨークは空へと伸びていきます。鉄骨とエレベーターの技術が、かつてない高さのビル——摩天楼(スカイスクレイパー)を可能にしました。1920年代の好景気「黄金の20年代」には、クライスラー・ビルとエンパイア・ステート・ビルが競うように建設され、街のスカイラインが一変します。
ジャズが流れ、株価が高騰し、街は熱狂に沸きました。しかし1929年、ウォール街の株価大暴落が世界恐慌の引き金となります。皮肉にも、大恐慌のさなかに完成したエンパイア・ステート・ビルは、その後長く世界一の高さを誇り、苦難の時代を超えて立ち続ける街の象徴となりました。
栄華を極めたニューヨークにも、暗い時代がありました。1970年代、市の財政は破綻寸前に陥り、地下鉄は落書きだらけ、犯罪が急増し、街は「危険な都市」の代名詞となります。多くの人が郊外へと去り、街は活気を失いかけました。
しかしニューヨークは、この時代からも新しい文化を生み出します。荒れた街角からヒップホップやグラフィティ、パンクが生まれ、世界へ広がっていきました。1990年代以降、治安対策と再開発が進み、街は劇的に甦ります。倉庫街はギャラリーに、荒れた地区はおしゃれなエリアに生まれ変わり、ニューヨークは再び世界が憧れる街へと戻っていったのです。
2001年9月11日、同時多発テロ事件により、ダウンタウンにそびえていた世界貿易センターのツインタワーが崩壊しました。ニューヨークにとって忘れられない傷であり、街は深い悲しみに包まれます。
しかしこの街は、ここでも立ち上がりました。跡地には犠牲者を悼む2つの追悼の池(9.11メモリアル)が造られ、その隣には新たな超高層ビル「ワン・ワールド・トレード・センター」が空へと伸びました。オランダの交易所から、移民の玄関口、摩天楼の時代、危機と再生を経て——何度傷ついても、そのたびに新しい姿で立ち上がる。ニューヨークを歩くとは、この街が積み重ねてきた再生の物語をたどることにほかなりません。