なぜジェロニモス修道院はあれほど装飾的なのか。なぜバイシャ地区だけ碁盤目状に整然としているのか。なぜこの街には物悲しい歌声が似合うのか。5つのポイントで、大航海時代の栄光と大災害からの再生を経てきた街の文脈をつかみます。
リスボンはテージョ川の河口という交易の要衝に位置し、古くから多くの勢力に支配されてきました。紀元前からフェニキア人の交易拠点があったとされ、その後ローマ帝国が「オリシポ」と呼ばれる都市を築きます。8世紀にはイベリア半島に進出したイスラム勢力(ムーア人)が街を支配し、「アル・ウシュブーナ」と呼ばれる時代が400年近く続きました。
1147年、初代ポルトガル王アフォンソ1世が第2回十字軍の力を借りてムーア人からリスボンを奪還(リスボン包囲戦)。これが現在のポルトガルという国の骨格が固まる大きな転換点になりました。この街を見下ろす丘の上には、今もムーア時代の要塞跡を基礎にしたサン・ジョルジェ城が残っています。
15世紀、エンリケ航海王子の後押しでポルトガルは航海技術を発展させ、アフリカ西岸の探検を本格化させます。そして1498年、ヴァスコ・ダ・ガマがリスボンからインド航路の開拓に成功。以降、香辛料交易で得た莫大な富がリスボンに流れ込み、ヨーロッパ有数の富裕都市へと押し上げました。
この繁栄を象徴するのが「マヌエル様式」と呼ばれる、ロープや貝殻・地球儀など航海にまつわるモチーフを石彫りに取り込んだポルトガル独自の建築様式です。ジェロニモス修道院は、香辛料交易にかけられた税収(通称「胡椒税」)を財源に建設され、ヴァスコ・ダ・ガマの墓所も置かれています。
1755年11月1日(諸聖人の日)、リスボンをマグニチュード8〜9級とされる大地震が襲い、直後の津波と大規模な火災が街の大部分を焼き尽くしました。死者数は諸説ありますが数万人規模とされ、当時のヨーロッパ全体に衝撃を与えた大災害として、後の啓蒙思想にも影響を与えたことで知られています。
復興の指揮を執った宰相ポンバル侯爵は、被災したバイシャ地区を碁盤目状の合理的な都市計画で再建。建物には「ガイオラ・ポンバリーナ」と呼ばれる木造の耐震フレーム構造を採用し、世界でも早期の耐震建築の試みとして評価されています。今のバイシャ地区の整然とした街並みは、この大災害からの復興の産物です。
ファドは19世紀初頭、アルファマやモウラリアといったリスボンの下町で生まれたとされる歌謡です。「サウダーデ」と呼ばれる、失われたものへの郷愁や切なさを歌うのが特徴で、ギターラ(ポルトギター)の哀愁ある音色に乗せて歌われます。
20世紀にはアマリア・ロドリゲスという伝説的歌手が国際的にファドを広め、「ファドの女王」として今も愛され続けています。2011年にはユネスコ無形文化遺産に登録され、アルファマ地区には今も本格的なファドハウスが点在しています。
20世紀のポルトガルは、サラザールによる独裁体制「エスタド・ノヴォ」が1933年から約40年続きました。この体制は1974年4月25日、軍によるほぼ無血のクーデター「カーネーション革命」によって終焉を迎えます。兵士の銃口にカーネーションの花が差し込まれたことからこの名で呼ばれ、ポルトガルの民主化の出発点となりました。
1998年にはリスボン万博(Expo '98)が開催され、その跡地は現在パルケ・ダス・ナソインイス(国民公園)という近未来的なエリアとして再生されています。歴史地区の重厚さと、テージョ川沿いの現代的な街並みが同居しているのが、今のリスボンの魅力です。