なぜ歩道に赤い線が引かれているのか。なぜ港に「茶」を投げ込んだ事件が、独立戦争の引き金になったのか。なぜこの小さな街に、世界最高峰の大学が集まっているのか。ボストンは、ピューリタンが築いた「丘の上の町」から始まり、アメリカ独立と学問・改革の中心となった街です。5つのポイントで、この国の始まりが刻まれたボストンの物語をたどります。
ボストンの始まりは、1630年。信仰の自由を求めてイギリスから渡ってきたピューリタン(清教徒)が築いた入植地でした。指導者ジョン・ウィンスロップは、この新しい町を「丘の上の町(都市)」——世界の模範となる理想の共同体にしようと呼びかけます。その理念は、後のアメリカの自己像の原点にもなりました。
町の中心には、いまもアメリカ最古の公共公園ボストン・コモンが残ります。厳格な信仰と勤勉を重んじるピューリタンの気風は、教育と道徳を大切にするニューイングランドの文化を育て、早くも1636年にはハーバード大学が創立されました。学問を重んじる街の性格は、この時代に芽生えたのです。
18世紀後半、イギリス本国が植民地に一方的な課税を強めると、ボストンは反発の最前線になります。「代表なくして課税なし」——自分たちの代表がいない議会で決められた税は不当だ、という主張が街に広がりました。
そして1773年、怒りは行動に。市民が先住民に扮して港に停泊するイギリス船に乗り込み、積み荷の紅茶を海に投げ込んだ「ボストン茶会事件」が起きます。この抵抗が、独立への流れを決定づけました。ファニュエル・ホールでの集会、ボストン虐殺事件の記憶——街のあちこちに、独立革命の火種が刻まれています。
1775年4月、イギリス軍が武器庫のある郊外へ動き出します。その動きを察知した銀細工師ポール・リビアは、オールド・ノース教会の尖塔に掲げられた「2つのランタン」を合図に、馬で夜を駆けて仲間に危機を知らせました。「イギリス軍が来るぞ」——この真夜中の騎行が、独立戦争の幕開けを告げたのです。
翌朝、郊外のレキシントンとコンコードで、植民地の民兵とイギリス軍が衝突。「世界に響いた銃声」と呼ばれる最初の一発が放たれ、アメリカ独立戦争が始まりました。ボストンとその周辺は、こうして独立への戦いの出発点となったのです。街の史跡をつなぐ赤い線「フリーダムトレイル」は、この物語をたどる道でもあります。
独立後、ボストンは学問と思想の中心地として花開きます。ハーバードを筆頭に大学が集まり、文学者や思想家が輩出。その知的な気風から、街は「アメリカのアテネ」と呼ばれるようになりました。
同時にボストンは、社会改革の最前線でもありました。とりわけ奴隷制廃止運動(アボリショニズム)の一大拠点となり、自由を求める人々の声が街から全米へ広がっていきます。19世紀にはアイルランドをはじめ多くの移民が流入し、街の顔ぶれも大きく変わりました。理想と改革を重んじるボストンの伝統は、この時代に確かなものになったのです。
20世紀後半、ボストンは大きな再生を遂げます。都心を分断していた高架高速道路を地下化する巨大事業「ビッグ・ディグ」によって、街に緑の遊歩道がよみがえりました。荒れていたウォーターフロントも、美しい水辺のエリアへと生まれ変わっています。
そして今、ハーバードとMITを核に、ボストンは世界有数のイノベーション都市になりました。テクノロジー、バイオ、医療、金融——最先端の産業が集まる一方、フリーダムトレイルの史跡はていねいに保存されています。建国の記憶を歩いてたどれる街でありながら、未来の科学を生み出す街でもある。ボストンを訪れるとは、アメリカの「始まり」と「これから」の両方に触れることなのです。