人口1000人にも満たない小さな集落が、わずか数年で数万人の都市になった——サンフランシスコの歴史は、この異常な急成長から始まります。金を求めて世界中から人が押し寄せ、大地震で街は壊滅し、それでも人々は建て直しました。そして自由を求める人々が集い、やがて世界の技術を変える街に。5つのポイントで、その歩みをたどります。
この半島には長く先住民の人々が暮らしていました。18世紀後半、スペインがこの地に伝道所と要塞を築きます。1776年に建てられた伝道所は今も市内に残る最古の建物で、街の起点となりました。
その後この地はメキシコ領となり、湾に面した小さな集落が生まれます。当時の人口は数百人ほど。深く波の穏やかな湾は天然の良港でしたが、大陸の西の果てにある辺境の地にすぎませんでした。この静かな集落が世界的な都市に変わるまで、あと数年——誰も想像していなかったはずです。
1848年、内陸で金が発見されます。報せは世界中を駆けめぐり、翌1849年から金を求める人々が殺到しました。彼らは年にちなんで「フォーティナイナーズ」と呼ばれます。
船で到着する人々の玄関口となったのがサンフランシスコでした。人口は1000人程度から数年で2万人以上へと爆発的に膨張。港には、乗組員までが金鉱へ走ったために放棄された船が林立したといいます。テント村から始まった街には、宿も酒場も銀行も一気に建ちました。
金を掘り当てた人はごく一部でしたが、道具や食料、サービスを売った商人たちは確実に富を築きました。無秩序で荒々しく、しかし誰にでも機会が開かれている——この時代の気質が、今もこの街の底に流れています。
1869年、大陸横断鉄道が完成し、東海岸と西海岸が鉄路で結ばれます。この難工事、とりわけ険しい山岳部の建設を支えたのが中国からの移民労働者でした。彼らは低賃金と危険な作業条件のもとで働き、多くの犠牲を出しながら鉄道を完成させます。
工事を終えた人々の多くはこの街に住み着き、北米最古級のチャイナタウンを形づくりました。しかし不況が訪れると、彼らは職を奪う存在として激しい差別にさらされ、移民を制限する法律まで作られます。チャイナタウンは、そうした逆風のなかで互いに支え合うために結束を強めた街でもありました。今の賑わいの背後には、この歴史が横たわっています。
1906年4月、巨大な地震がサンフランシスコを襲いました。しかし本当の破壊はその後に訪れます。倒れた建物から出た火が広がり、水道管も断裂していたため消火できず、炎は三日間にわたって燃え続けました。市街地の大半が焼失し、多くの人が家を失います。
それでも街の再建は驚くほど早く進みました。わずか数年で市街地は立ち直り、1915年には万国博覧会を開催して復興を世界に示します。このとき造られた建造物の一部は今も市内に残っています。
この経験は街に「地震とともに生きる」という前提を刻みました。以後の建築は耐震を強く意識して設計され、その姿勢は現在まで続いています。
20世紀後半、この街は既存の価値観になじめない人々の避難所になりました。1950年代には詩人や作家が集い、1967年の夏には全米の若者が街の一角に集まって「愛と平和」を掲げます。音楽とアート、そして反戦の空気が街を満たしました。
同じころ、性的マイノリティの人々が全米から移り住み、権利を求める運動の中心地となります。多様性を受け入れるという街の姿勢は、この時代に決定づけられました。
そして南に隣接する一帯がシリコンバレーとして世界の技術を牽引しはじめ、街は再び変貌します。莫大な富が流入する一方、家賃の高騰と格差という深刻な課題も抱えることになりました。金を求める人々の街から、自由を求める人々の街、そして技術の街へ——サンフランシスコは今も揺れながら変わり続けています。