なぜこの街に、世界で初めての摩天楼が建ったのか。なぜブルースの街と呼ばれるのか。湿地の小さな交易地は、200年足らずでアメリカ第3の都市になりました。大火による壊滅と、そこからの大胆な再生。鉄道と移民が運んだ富と労働争議。5つのポイントで、何度も自らを作り替えてきたこの街の歴史をたどります。
シカゴという名は、この地に生えていた野生のネギの一種を指す先住民の言葉に由来すると言われます。もともとは湖畔の湿地帯で、決して恵まれた土地ではありませんでした。
しかしこの場所には、地理上の決定的な利点がありました。五大湖の水系と、ミシシッピ川の水系がここでほぼ接しているのです。船を陸越しに運べば、東海岸から内陸の大河までつながる——先住民が古くから使っていたこの経路に、19世紀、運河と港が築かれます。「北米大陸の東西・南北をつなぐ結節点」という宿命が、シカゴという都市を生み出しました。
19世紀半ば、シカゴにアメリカ中の鉄道が集まりはじめます。西部の広大な農地から穀物が、大平原から家畜が、この街に運び込まれ、加工されて東部へ送られる——シカゴはアメリカの胃袋を支える巨大な集散地になりました。
とりわけ有名なのが食肉産業です。巨大な家畜処理場が街の南に広がり、詩人はシカゴを「世界の食肉解体人」と呼びました。仕事を求めてヨーロッパ各地から移民が押し寄せ、人口は数十年で桁違いに膨れ上がります。荒々しくも活気に満ちた、労働者の大都市——その気質は今もこの街に流れています。
1871年、シカゴ大火が街を襲います。木造建築が密集していた市街地は炎に包まれ、中心部はほぼ焼き尽くされました。しかしシカゴは、この壊滅を「一から都市を設計し直す機会」に変えます。
復興のために全米から建築家が集まり、燃えない素材である鉄と石で、より高く建てる挑戦が始まりました。そして鉄骨の骨組みで建物を支えるという発想が生まれます。壁ではなく骨格で高さを稼ぐ——これが近代的な摩天楼の誕生でした。1893年には万国博覧会を開催し、白く輝く会場で復興を世界に示します。シカゴが「建築の街」と呼ばれる理由は、この焼け跡にあります。
急成長の裏で、労働者たちは長時間労働と過酷な環境に置かれていました。1886年、8時間労働制を求める運動の集会が衝突事件に発展します(ヘイマーケット事件)。この出来事は世界の労働運動に大きな影響を与え、後の「メーデー(5月1日の労働者の日)」の由来のひとつとなりました。
同じころ、貧しい移民が暮らす地区でジェーン・アダムズらが始めたセツルメント運動は、社会福祉の先駆けとして知られます。アイルランド、ドイツ、ポーランド、イタリア、そしてメキシコ——世界中からの移民が集まり、それぞれの地区と文化を築きました。シカゴの多様な食と街の顔は、この移民たちが作ったものです。
20世紀、アメリカ南部で差別と貧困に苦しんでいた多くの黒人が、仕事と自由を求めて北部の工業都市へ移り住みました。「大移動(グレート・マイグレーション)」と呼ばれるこの流れで、シカゴにはミシシッピ・デルタの音楽——ブルースがもたらされます。
南部の農村で生まれた素朴なブルースは、騒がしい大都市のクラブで演奏されるうちにエレキギターとアンプで増幅され、力強い「シカゴ・ブルース」へと生まれ変わりました。それはやがてロックの土台にもなります。ジャズやゴスペルもこの街で育ちました。湿地の交易地から鉄道の街へ、焼け跡から摩天楼へ、そして音楽の街へ——シカゴを歩くとは、何度も自らを作り替えてきた街のたくましさに触れることなのです。