なぜエルベ川のほとりに、これほど華麗なバロックの街並みが広がっているのか。なぜフラウエン教会の壁だけ、石の色がまだらなのか。ドレスデンは「エルベ川のフィレンツェ」と讃えられた芸術の都であり、一夜で灰燼に帰した街であり、そして瓦礫から甦った和解の街でもあります。5つのポイントで、ザクセン選帝侯の宮廷都市から、破壊と再建を経て今の姿にいたるドレスデンの物語をたどります。
ドレスデンは、豊かなザクセン地方を治めた選帝侯(皇帝を選ぶ資格を持つ有力諸侯)の宮廷都市として栄えました。とりわけ18世紀初頭、アウグスト強王(アウグスト2世)の時代に街は黄金期を迎えます。芸術と華麗を愛したこの君主のもとで、エルベ川のほとりに壮麗なバロック建築が次々と築かれました。
ツヴィンガー宮殿、レジデンツ城、宮廷教会——川岸に並ぶ建築群のシルエットは、後に「エルベ川のフィレンツェ」と讃えられます。いまエルブラッセン(テラス)から眺める旧市街の眺望は、この選帝侯時代につくられた都市の骨格そのものです。
アウグスト強王は無類のコレクターでもありました。彼が近郊のマイセンでヨーロッパ初の硬質磁器の製造を成功させたことは有名で、「白い黄金」への情熱は世界史を動かしました。同時に彼は絵画・工芸・宝飾を惜しみなく収集します。
その収集品は今もドレスデンの美術館に受け継がれています。ツヴィンガー宮殿のアルテ・マイスター絵画館にはラファエロ「システィーナの聖母」やフェルメールの名画が並び、レジデンツ城の「緑の丸天井(グリューネス・ゲヴェルベ)」には目もくらむ宝飾コレクションが輝きます。ドレスデンが単なる美しい街ではなく、ヨーロッパ屈指の芸術都市である理由がここにあります。
第二次大戦末期の1945年2月13日から14日にかけて、ドレスデンは連合軍による大規模な空襲を受けます。爆撃と、それに続く猛烈な火災の嵐(火災旋風)によって、「エルベ川のフィレンツェ」と讃えられた歴史地区は一夜にして瓦礫の海と化しました。おびただしい数の市民が犠牲になり、街のシンボルだったフラウエン教会も、数日後に焼け落ちた石組みの重みで崩壊します。
軍事目標に乏しい文化都市への大規模爆撃は、戦争の悲惨と是非をめぐって今も語り継がれています。ドレスデンにとって2月13日は、破壊の記憶を静かに悼む日であり続けています。
戦後、ドレスデンは東ドイツ(社会主義国家)に属しました。多くの建物が再建されるなか、崩れ落ちたフラウエン教会は、瓦礫の山のまま45年間も残されます。それは戦争への警告であり、東ドイツ時代には再建の資金も体制の後押しもありませんでした。黒く焦げた石の山が、街の中心に横たわり続けたのです。
転機は東西ドイツ統一でした。世界中からの寄付と、元の石を一つずつ拾い集めて元の位置に戻すという気の遠くなる作業によって、教会は再建されます。2005年、崩壊から60年を経て、フラウエン教会は再びエルベ川のほとりにその姿を現しました。壁のあちこちに黒くくすんだ石が混じっているのは、瓦礫から再利用された「元の石」。破壊と再生の両方を、建物そのものが記憶しています。
フラウエン教会の再建を象徴として、ドレスデンの旧市街は丹念に復元されました。ツヴィンガー宮殿、レジデンツ城、ゼンパー・オーパー——かつて瓦礫だった一帯に、再びバロックの街並みがよみがえっています。いま歩く華麗な旧市街は、「破壊される前の姿」を人々が取り戻したものなのです。
一方でエルベ川の対岸、新市街(ノイシュタット)には、爆撃を免れた古い街並みや、若者の集まる自由な文化が息づいています。失われた美を丁寧に取り戻した旧市街と、生き残った日常が続く新市街——その対比こそが、破壊と再生をくぐり抜けたドレスデンならではの表情です。この街を歩くとは、失われたものと、取り戻したものの両方に触れることにほかなりません。