なぜウィーンにはあれほど壮麗な宮殿が2つもあるのか。なぜリング通りだけ道幅が広いのか。なぜこの街から世界的な作曲家が次々と生まれたのか。5つのポイントで、600年続いたハプスブルク帝国の首都としての文脈をつかみます。
1273年にルドルフ1世が神聖ローマ皇帝に選出されて以来、ハプスブルク家は約640年にわたりオーストリアを中心とする広大な領土を統治しました。最盛期には「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれたスペイン・ハプスブルク家を含め、ヨーロッパ随一の名門王家として君臨。ウィーンはその中欧側の本拠地として発展しました。
歴代皇帝の居城ホーフブルク宮殿は、13世紀から増築が繰り返された複合宮殿群で、現在も大統領官邸や博物館として機能しています。夏の離宮として建てられたシェーンブルン宮殿も、フランスのヴェルサイユ宮殿を意識して造営された壮麗な建築です。
1857年、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は旧市街を囲んでいた城壁の撤去を命じ、跡地に幅約57mの環状大通り「リングシュトラーセ」を建設しました。この通り沿いには、国立オペラ座・美術史博物館・自然史博物館・国会議事堂・市庁舎など、19世紀後半を代表する壮麗な建物が次々と建設され、様々な過去の建築様式を折衷する「歴史主義(ヒストリズム)」の集大成となりました。
18〜19世紀、ウィーンはハイドン・モーツァルト・ベートーヴェン・シューベルトらが活動した音楽史上最も重要な都市のひとつでした。ハプスブルク家の宮廷が芸術のパトロンとなり、貴族のサロン文化が作曲家たちの活動を支えたことが背景にあります。
19世紀後半にはヨハン・シュトラウス2世が「美しく青きドナウ」などの作品でワルツを一大ブームに押し上げ、ウィーンは「ワルツの都」としても知られるようになりました。国立オペラ座では今も毎晩オペラやバレエが上演され、街角にはモーツァルトの衣装で演奏会のチケットを売る姿が今も見られます。
19世紀末、旧来の歴史主義的な芸術に反発する若手芸術家たちが「ウィーン分離派(ゼツェッション)」を結成しました。中心人物グスタフ・クリムトは、金箔を多用した装飾的な作風で「接吻」などの傑作を残し、当時のウィーンの退廃的で耽美的な空気を象徴する存在となりました。
この時代のウィーンは、精神分析学の創始者ジークムント・フロイトが活動した街でもあり、コーヒーハウスは芸術家・知識人が議論を交わす「もう一つの応接間」として機能していました。
1914年、サラエボ事件を発端とする第一次世界大戦の結果、1918年にハプスブルク帝国は解体し、ウィーンは広大な帝国の首都から一気に小国オーストリアの首都へと立場を変えます。1938年にはナチス・ドイツに併合され、第二次世界大戦後は米英仏ソ4か国による分割占領を経て、1955年に永世中立国として独立を回復しました。
現在のウィーンは国連の主要拠点都市のひとつであり、「世界で最も住みやすい都市」ランキングの常連としても知られています。かつての帝都の壮麗な建築群と、質の高い公共インフラを両立させた街として、今も多くの旅行者を惹きつけています。