なぜ「ブダペスト」という名前は3つの街の合体でできているのか。なぜこの街の温泉はオスマン帝国と関係があるのか。なぜ建物の壁に今も銃弾の跡が残っているのか。5つのポイントで、ドナウ川が結んだこの街の文脈をつかみます。
ドナウ川西岸、現在のオーブダ地区には、かつて古代ローマ帝国の軍事拠点「アクインクム」が置かれていました。ローマ軍団はここをパンノニア属州の要衝として整備し、円形闘技場や公共浴場など、都市としてのインフラを築いていました。
9世紀末、マジャル人(現在のハンガリー人の祖先)がカルパティア盆地に進出し、この地に定住します。ローマの遺構の上に、新たな民族の歴史が積み重なっていく——ブダペストの重層的な性格は、この時代から始まっていました。
実は「ブダペスト」という都市は1873年、それまで別々の自治体だったブダ・ペスト・オーブダの3都市が合併して誕生しました。それ以前、ドナウ川の対岸にある2つの街は、性格も発展の仕方もまったく異なる存在だったのです。
この統合を後押ししたのが、1849年に完成したくさり橋でした。それまで冬場は凍結、夏場は増水で分断されがちだった両岸を恒久的に結んだこの橋が、都市統合という発想そのものを現実的なものにしたのです。
16〜17世紀、ブダペストは約150年にわたってオスマン帝国の支配下に置かれました。この時代、支配者たちは街の地下に豊富に湧く温泉源に着目し、イスラム文化の入浴習慣に基づいた本格的な温泉施設を各所に建設します。
ルダシュ温泉やキラーイ温泉など、今も現役で使われている一部の温泉施設は、このオスマン時代の建築様式をそのまま今に伝えています。支配という重い歴史の記憶が、皮肉にも現代の観光の目玉である「温泉文化」という形で受け継がれているのです。
ドナウ河岸にそびえる壮麗なハンガリー国会議事堂は、1896年のマジャル人建国千年祭に合わせて建設が進められました。当時のヨーロッパで最大級の議会建築を目指し、ネオ・ゴシック様式を基調としながらも、ハンガリー独自の装飾を随所に散りばめた壮大なデザインが採用されています。
建国千年という国家的な節目に、これほどの規模の建築で応えようとした当時の意気込みが、現在もブダペストを象徴する景観として輝き続けています。
1956年、ハンガリーではソ連の支配に対する大規模な民衆蜂起(ハンガリー動乱)が起こりました。市民たちは戦車に立ち向かい自由を求めましたが、最終的にソ連軍の介入によって鎮圧され、多くの犠牲者を出す結果となりました。
市内には今も、この時の戦闘で刻まれた銃弾の痕がそのまま残る建物がいくつも存在します。冷戦史における重要な出来事の記憶を、意図的に修復せず残しているこれらの建物の壁は、この街が歩んできた自由への道のりを静かに物語っています。