なぜパリの街並みはこれほど統一されているのか。なぜエッフェル塔は最初嫌われていたのか。なぜ凱旋門から12本もの道が放射状に伸びているのか。5つのポイントで街の文脈をつかみます。
パリの歴史は紀元前3世紀、セーヌ川の中州シテ島に住んだケルト系部族「パリシイ族」から始まります。ローマ人がここを「ルテティア」と呼び都市を築き、中世にはカペー朝の王権がこの島を拠点にフランス統治を固めていきました。現在のノートルダム大聖堂・サント・シャペルが立つ場所こそ、パリという都市の核となった土地です。
パリが「光の都」と呼ばれるようになったのは、実は街灯の数ではなく、18世紀の啓蒙思想(光=理性)の中心地だったことに由来するという説が有力です。
現在のパリの街並み——クリーム色の石灰岩の壁、黒い鉄製のバルコニー、6〜7階建てで統一された高さ——これは19世紀半ば、ナポレオン3世の命を受けたオスマン男爵による大規模都市改造の結果です。中世の狭い路地に密集していたパリを、幅広い大通り(ブールバール)と統一された建築規則で作り変えたのがこの計画でした。
1889年のパリ万博のシンボルとして建てられたエッフェル塔は、完成当時パリの知識人・芸術家から猛烈な批判を浴びました。モーパッサンら著名人300人が「鉄の悪夢」と糾弾する抗議文に署名し、当初は万博後20年で解体される予定でした。
解体を免れたのは、無線通信のアンテナとして軍事的価値が認められたためです。今では年間700万人が訪れるパリ最大の観光資源となり、批判していた知識人たちの予想は完全に裏切られました。
ルーヴル宮殿はもともと12世紀の要塞でした。歴代フランス国王の居城として拡張され続け、フランス革命後の1793年に「王の所有物を民衆のものに」という思想のもと美術館として開放されたのが現在のルーヴル美術館の始まりです。1989年に増築されたガラスのピラミッドは、当初「歴史的建築への冒涜」として猛反対されましたが、今ではエッフェル塔と同じく愛される存在になりました。
一方オルセー美術館は、1900年のパリ万博のために建てられた鉄道駅をそのまま美術館に転用した建物です。駅のアーチ型大時計が今も内部に残っており、印象派絵画の殿堂として親しまれています。
シャンゼリゼ通りの西端にそびえる凱旋門は、ナポレオンが自軍の勝利を記念して1806年に着工を命じた建造物です。完成は1836年——ナポレオン自身は完成を見ることができませんでした。門の足元の広場「エトワール(星)」からは12本の道が放射状に伸びており、上から見るとまさに星形をしています。
この放射状の都市計画も、軍事的な視点と都市美観を両立させたナポレオン的な思想の表れです。凱旋門の展望台に登ると、この星形の構造を実際に見渡すことができます。